zico's blog

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気持ち文法

課題は「表現力」と、どこかのフィギュアスケート選手が言っていた気がする。ジャンプなどの技術だけでは勝てないのが採点競技。

何が表現できて、何が表現できないのか。ひと飛びで4回転できても、表現力に乏しければ、心打つ演技はできないらしい。拡張しなければならない。表現の幅を。

幅といっても、そう簡単に測れるものではない。審査員も大変なんじゃないかと、素人目には思う。選手たちには、それぞれの拡張の仕方があるかもしれない。

我々には形式手法がある。数値による採点は難しいかもしれないが、いくつかの表現の間に階層を見出すことはできる。

同じ文字を任意の回数だけ繰り返す。括弧を開き、開いただけ閉じる。できることが増えると、それまで表現できなかったことが表現できるようになる。

しかし逆に、1つや2つの表現を見て、その人の何がわかるというのか。任意の表現を全て列挙することはできないし、どんな無限の表現も容易に有限の対象で完璧に説明出来たら、研究の対象にはならないはずだ。

とはいえ、1つや2つとは言わずとも、十分な有限の事実から帰納するのが科学というもの。これまで成し遂げられた、科学のある種の勝利から帰納すれば、料理の味見のごとく、人の「気持ち」だって説明できるかもしれない、ということがわかる。

いくつかの表現を味わって、その気持ちを説明しようとするのは多分、普段から日常的に行っている。そのときには、気持ちの形の存在を仮定している。直接説明するにしろ、外堀を埋めながら消去法的に説明するにしろ、気持ちの細胞壁みたいな何かに、せめて細胞膜みたいな何かに触れられると、とりあえずそう思って、とりあえず想像してみる。

その形は必ずしも、気持ちの持ち主にはわからない。膜なら変形するだろうし、壁だって破裂するかもしれない。みんなハン・ソロみたいに頑強な細胞膜を持ってるわけじゃない。

ともかく、持ち主の気持ちには形があるに違いないし、重要なのは、持ち主の表現がその形で制限されている可能性だ。形を知るのは少し怖いが、知って損することはないと思っている。怖さもあるが、どちらかというと辛い。

形を把握するため、時に、他人が自分の気持ちをまさぐってくる。これは必ずしも悪くはない。不快なこともあるが、メロメロになったりもする。しかし、辛い、というのは、良い悪いというより、辛い。現実は辛い。

表現すればするほど、まさぐられて、形はわかるかもしれない。それが貧相なものだったりすると辛いということ。こんなものか、自分、と。

期待する必要はなかった。気持ちの通りに表現することは問題ないのだが、なんとなく切なさとか、疑念が残る。説明された形では表現できないことを表現できそうな気がするが、そのための構文を知らない。マニュアルどころか仕様もない。まさぐられたせいで変形してしまった、とさえ思うことがある。それで、自信を無くした、とか言ったりする。

便利な構文を見つけないといけない。あるいは、拡張しないといけない。それぞれの仕方で。再起動はできないから、できれば生きたまま、システムを更新したい。